山梨日日新聞 2008年(平成20年)5月23日 金曜日

「ANNE OF GREEN GABLES」の
   原書と直筆翻訳原稿 
孤児院から引き取られた赤毛の女の子アン・シャーリーが、カナダ東海岸の小さな島で
成長していく姿を描いた「赤毛のアン」。世界中で愛されているこの物語を日本に初めて
紹介したのは、甲府市出身で翻訳家・児童文学者の村岡花子だった。一九〇八年、カナダ
の女性作家L・M・モンゴメリの原作「ANNE OF GREEN GABLES(緑の切り妻屋根の家の
アン)」が発表されてから今年で百年。そして花子没後四十年の節目に、「アンの世界」と激
動の時代龍生きた訳者の半生をたどる。                  (青沼 朱美) 

 「自分の行く手は、まっすぐにのびた道のように思えたのよ。ところが、いま、まがりかどに
来たのよ。先になにがあるかは、わからないの。それにはまた、それのすてきによいところ 
があると思うわ」(「赤毛のアン」村岡花子訳より抜粋)

むらおか・はなこ 本名-・はな。
1893年、甲府市に生まれる。翻訳家・児童文
学者。東洋英和女学校高等科卒業後
、山梨英和女学校で英語教師を務めた。
訳本に「王子と乞食」「パレアナの成長」
「フランダースの犬」など多数。
JOAK(NHK前身)「子供の新聞」コーナーを
担当しラジオのおばさん」
としても親しまれた。1968年、75歳で死去
。 
   
                   曲り角を乗り越えて・・・・
 戦時下ひそかに翻訳着手
          貫き通した「友情の証し」

 プリンスエドワーが島の開墾地のはずれに住む、中年のマシュウとマリラ兄妹に孤児院から
引き取られて成長したアン。重い病にかかったマリラが、マシュウの死を嘆いて家を引き払お
うとしたとき、夢だった大学進学をやめて彼女をそばで支えようと決心した場面でこう語る。孤
児で赤毛でやせっぽっちの、めぐまれない境遇にいた少女が、挫折や絶望を勇気と思いやり
を持って乗り越えていく姿は、多くの人々の心を打った。

                 日本中が夢中に
 現在、世界二十二カ国語に翻訳されているロングセラーが、日本に初めて紹介されたのは
一九五二年。新しい文学に飢えていた戦後間もない日本の人々を夢中にさせた。アンの生き
ざまに加え、文中の随所に見られる「いちご水」や「くだもの入りのケーキ」「歓喜の白路」「か
がやく湖水」などカナダの料理や花、自然を描事たディテールも、読者を魅了しただろう。
 初訳者の村岡花子は甲府に住んでいた二歳のときにキリスト教洗礼を受け、東洋英和女
学校のカナダ人宣教師の下で学び、高い英語力を身に付けた才女だった。翻訳の仕事を手
掛けていた彼女が「ANNE OF GREEN GABLES」の原書と出合ったのは三九年、四十六歳の
とき。それは第二次世界大戦勃発(ぼっばつ)により日本と英米関係が悪化し、帰国を余儀
なくされたカナダ人の女性宣教師ミス・ショーからの贈り物だった。

 戦中の日本は「鬼畜米英」の道を突き進み、欧米文化を排斥。学校では英語教育が制限さ
れ、礼拝中の説教は特別高等警察に監視され、カナダ人宣教師らは検問を受けた。花子の
孫で赤毛のアン記念館・村岡花子文庫の村岡恵理さんは「祖母は、日本人であると同時に西
洋人と友人であるという事実に、苦しんだと思う」と話す。
 
「赤毛のアン」初版(1952年・三笠書房刊)
=いずれも「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」収蔵
 クリスチャンであることも、洋書を持っていることも、英語が話せることも、翻訳の仕事を
していることも口に出せない暗い時代。いつ自らの身に災いが降りかかるか分からない暮
らしの中で花子は、カナダの友への「友情の証し」を立てるため静かな活動を始める。
それが「ANNE OF GREEN GABLES」の翻訳だった。

            灯火管制下の訳
 大切にしていた聖書や賛美歌集、洋書は防空壕(こう)やこうりに入れて地中に埋めておき
、原書は肌身離さず持を歩いた。新しい紙は手に入らず、家中から原稿用紙をかき集め、灯
火管制のなかで訳出を進める日々。東京・大森の自宅は空襲に遭い、爆弾が床の間や庭に
落ちるという命の危険にさらされながらも、筆を止めることはなかった。そして原書を手にして
から六年後の四五年、戦争もようやく終結を迎えたころ、原稿用紙七百八十二枚にのぼる初
訳が完成した。 「赤毛のアン」初版(五二年刊行)のあとがきの中で、花子はこう語っている
。「カナダ系の作家の作品を紹介したいという私の念願は、今日まで1に多くのカナダの教師
たち友人たちから受けたあたたかい友情への感謝からも出発しております」

 「人生の曲がり角」に立ってもくじけず、明るく前を向いて歩き続けたアン。その姿に深い感
銘を受けた花子もまた、苦境のなかで自らの信念を貫き、アンと同じようにたくさんの人々に
喜びを与えた女性だった。

                             山梨日日新聞 2008年(平成20年)5月24日 土曜日 

村岡花子の生き方を孫の恵理さんがたどった新著「アンのゆりかご
 村岡花子の生涯」(6月5日にマガジンハウスから刊行・1995円)
 「しんけんなお仕事と、りっはな望みと厚い表情はアンのものであり、だれも
、アンが生まれつきもっている空想と夢の国をうばうことはできないのだ」(「赤
毛のアン」村岡花子訳より抜粋)
 クリスチャンである村岡花子が、戦時下に「ANNE OFGREEN GABLESL」を
訳し続けた強い精神は、いつ、どのようにして培われたものだったのか。そこ
には、花子をはぐくみ、支えてくれたカナダ人宣教師への友情ともう一つ、日
本に親子が一緒になって読める「家庭文学」を広げたいという夢があった。

          徹底した語学教育
 花子は一八九三年、甲府市で葉茶屋を営む安中逸平・てつの間に八人兄
弟の長女として生まれた。五歳になる前に家族で上京し、十歳で東洋英和女
学校に編入学した。当時、高等教育を受けられる女性は富裕層など、ごく一
部だけ。 特待生扱いで入学した花子は、成績を落とせば即座に退校となる巌
しい条件のなか、進学させてくれた家族の期待に応えるべく勉学にいそしんだ
。歴史、英語、数学、音楽、体育などの授業中の会話はすべて英話という

 村岡花子が生前使っていた書斎と応接間を再現している「赤毛のアン記念館
・村岡花子文庫」(花子の孫の美枝さん =左 =と恵理さん)   =東京都大田区
 
 
              家庭文学 普及の夢
 20代で翻訳集を初出版
       逆境乗り越え博愛広げる

徹底した語学教育が敷かれていた。赤毛のアン記念館・村岡花子文庫の村
岡恵理さんは「十五、六歳のころはすで㌃原書を読みふけっていたようだ」
と話す。
 英米文学に熱中するなかで、ある思いに駆られるようになる。それは自らが
成長過程で多く接し、精神的な支えになったような本、子供も大人も一緒にな
って家の中で声を出して読めるような「家庭文学」が日本にはない、ということ
だった。
 女学校時代、学校の図書室にあった洋書の内容を英語が苦手な友人に教
えたり、孤児院の日曜学校に教師として出向き、外国の物語を日本語に訳し
て子供たちに読み聞かせていた花子。一九一四年、二十一歳で英語教師とし
て山梨英和女学校へ赴任してからも、生徒たちのために「家庭文学」が必要
だという思いは募った。そして一七年、花子は自分で英米の短縮小説を翻訳
してまとめた「炉辺」を初出版する。そこで彼女はこう話る。
 日本にはこういうように父母も子供も一緒になって楽しむのに済当な読み物
が少ないように思われる。今後の日本にはこういう種類 の書物がさかんに
現れるようにな らなければいけない」             
 運命的な出合い
 「初めての翻訳出版が、その後の人生の方向付けになった」(村岡さん)。一九年、教職を辞した花子はキリスト教関係の本を出版する東京
の出版社に勤め、女性や子供向けの本の翻訳や編集に携わる。仕事を通じて徹三と知り合い二十六歳で結婚、翌年には長男道雄を出産と
順調に時は流れていった。
 しかし二三年、未曾有の被害を出した関東大震災に襲われ、夫の印刷会社が倒産。花子のペンに一家の生活が重くのしかかる暮らしの中
、追い打ちを掛けるように六歳の息子が短い生涯を閉じた。
  震災被害に重なる不幸に打ちめされ、書く気力を失った。しばらくは何をするわけでもなく日々を過ごしていた彼女を、もう一度奮い立たせた
のはアイルランド文学の翻訳家松村みね子から渡さた一冊の本、マーク・トウェーインの「王子と乞食」だった。何げなく目に入った本を手に取
って読み終えたとき、日本中の子供たちのために「家庭文学」を紹介する事が自分の使命だと悟り、再びペンを執った。
 それから十二年後、「ANNE OF GREEN GABLES」との運命的な出合いは待っていた。五二年に出版された赤毛のアン」は一大ブームを巻
きおこし、五九年までの七年にわたり 十冊のアン・シリーズが翻訳刊行された。
 友人たちへの厚い思い、逆境にも曲げない信念、そして人々に幸福を与える恩愛の精神を持った花子。亡くなって四十年後の今も彼女が目
指した通り、「アン」の名は、子供から大人にまで愛さ続けている。           〈青沼 朱美)